昭和42年05月07日 朝の御理解



 「やれ痛や今みかげをという心になれよ。」

 やれ痛や今みかげをという心になれよ。信心をさせて頂いておっても、様々な難儀が続く時にね実はその信心をしておって、変わった事が起こって来たら有り難いと心得て信心をせよと仰るどういう事だろう。有難いと心得て信心せよと信心しておっても、次々と難儀な事が起こって来る、それはどうした事であろうかとこんなに信心しているのに、どうした事だろうかと言う様な時には信心がもう止まっておる時。
 信心をさせて頂いて様々な難儀がもし次々と重なって行くと言う様な時程、実を云うたら、おかげを受けておる時であるという思い込みが出来ますと、その事に対して本当に真から根から、やれ痛や今みかげをという心が生れてくる。今真から根から巡りの御取り払いを頂いておる時だと、思い込みが出来て来てその事に対して、お礼が申し上げられて来る様になる。本当に是はですね。
 信心をしていて次々難儀な事が起こって来ると、云う時に信心を止めちゃならんからね。只泣く子供をあやす様に、よしよしと出来る事ならと、言う様な意味合いで、なだめたりする為の御教えの様に思っておる人がおる。気休めの様に思うておる人がおる。そうじゃないもん、信心しておって、成程変わった事が起こって来たら、おかげと心得て信心せよと仰るから、本当におかげと、心得させて頂かなければならんと。
 そういう思い方が出来る時に。どんなに繰り返し繰り返し、難儀な事が重なっても、続いても、それこそびくともしない、いよいよめぐりの御取り払いを頂いて、有難しという心が生れてくる。そこのところを、やれ痛や今みかげをよという心になれよと、難儀を感ずる、例えば叩かれたら痛い、痛い事は痛いんだけれども今こそ、お取払いを頂いているのだと、お礼申し上げていけと、こう云う事なんです。
 また事実がそうなんです、所があまりにも、繰り返し繰り返し難儀が続くと、もう打ちのめされるというかの様に、へたばってってしまって、いくら信心したって同じ事、こんな事が続くならと云う様な事で、お終いになってしまう。信心が中絶してしまう人すらがある。信心してたら、良い事ばかり続くとは決してない。所をしっかり修業させて頂かなければいけない、本当のおかげを頂かせて頂く。
 昨夜は総代会と、企画委員の方達の合同の会が御座いました。ちょうど今朝の三時半まででした。もう一時間休ませて頂けると思って休ませて頂いて、神様って本当に生きておられるのですけど、一時間休ませて頂いて。ちょうど四時半には目覚ましのおかげを頂いて、四時四十分には御結界に付かせて頂いて、そしてなんというですかね一時間足らずしか寝てないのですけど、何か充分休んだ様な気がする。
 目覚ましのおかげを頂く、ところがそこが神経です、人間なんですね。昨夜は四十分あまりしか寝とらんと思うもんですから、もう眠たいもうろうとして来る、思っただけでも、確かに目覚ましの、おかげを頂く時には、もう何時もの様になん時間か休ませて頂いた様な気持ちで、起きさせて頂くのですけども、昨夜は四十分しか休んでないと、思うともう頭が重うなったりいたします。
 今朝は御祈念させて頂くのに、もう一生懸命大祓を上げなければ眠気が付く、それこそ大声を張り上げてから、一生懸命奏上させて頂くところがです。もう何回大祓を奏上させて頂いても、奏上させて頂いても、あの罪けがれを祓い清める所が御座いますね、「母と子とおかせる罪、子と母とおかせる罪」と言う所が御座います、もうその大祓の半分の所が終ってから、「かくのらば」というとこになって来ると。
 又そこの所が返って来る。もうそれこそ繰り返し繰り返し、そこの所を繰り返す繰り返すたびに思いました。あの繰り返し繰り返しがいよいよ心身共に祓い清めておって下さってるなあという事です。こういう間違いのない教えにいや恥かしかったもう( ? )から、まいっちょうようと上げなとそんなもんじゃなくってですね、もうこれで、是で清められるならば、これで心が身が清めさせて頂くならば有難い。
 やれ痛や今みかげをよという心なんです。ですから何回も何回もそこのところをですね、そのおかげを頂いてから、母と子とおかせる罪、子と母とおかせる罪と言うところを、もう繰り返し繰り返し上げさせて頂いてから。もう心身共どもにです、清まっていっておるのを感じるくらいの有難さ。おかしいですね間違っていってる事がそう言うふうな事が有難うなって来る。
 それが実は信心だと思うそして本当にそれが祓い清めておって下さったんだなあと云う事をです。感じる事はほんなら私が何回も大祓を繰り返したから、少し御祈念を他の所を拝む所をざあと拝んどこという訳じゃない訳で、いっその事是だけは何時もの事一心をお願いする所はお願いし、お礼を申し上げる所はお礼申し上げてお詫びする所は、お詫び申し上げて御霊様の御祈念が終った時には六時十五分やっぱり何時もと同じ事。
 いかにその事が清めの為であった、祓の為であったと云う事を感じん訳には、まいりません。皆さん、信心したら良い事ばかり続くと云う事はないですよ、いやむしろ願っても願っても、右と願えば左、左と願えば右と言う様にです、もう一生懸命祈らせて頂いて一生懸命お願いさせて頂いてです、やれ痛やと言う様な事が、続く時程に私は元気の出る様な信心をしとかないかんと思うですね。
 これ程信心するのにどうして此の様な事がおこって来るのであろうかと思うた時には、もう信心が止まっておるんだと。是はまだ私の信心が足りぬからだと。一心に信心を進めて行けば、そこからおかげが受けられる。そこから受けられる所のおかげが素晴らしいのである、そから現われて来るのが本当のものなのである。私がこうして椛目から合楽に移らせて貰い、新に人が助かられる様になる。
 以前の私の信心を知っておられる方、中村さんとか秋山さんが、それをよう知っておられるが先生方でも仰る。あなたの真似は出来ないと言われる位に一生懸命信心させて頂いたが、それならば果たしておかげが続いていたかというともう反対の事ばかりあったね。そういう時に私の心の中に矢張り元気な心と、是は信心がどうでも足りんと思うから人の真似の出来ん修業。
 人の真似の出来ない信心も見易くしかも有難う出来たという事。そしてやれ痛やが続いて、続いていってる内にです、お取り祓いを頂いたという気がする。おかげの受け物が出来たら、後はもう限りがない程現在の様な、おかげを頂けておる訳で御座います。まああんなに信心してどうしてあんなに貧乏しなさなんじゃろうかと、言う様な貧乏も続いた。信心しよんなさって。
 どうして不幸が次々と続くじゃろうと言う様な。もうそれこそ人生最大の悲しみといった様な事がです、続いた。それでも私共は信心のおかげでですね。もうその都度、都度に私の信心には、迫力が出来た様に感じます。皆さん、折角信心なさるならですね、本当のおかげを頂く為の信心が、打ち込まれなければいけませんよね。どんなに繰り返し繰り返し、難儀が続く様な事があっても。
 そういう時に本当に、それを教祖が仰っておられる。教えて下さっておられる。やれ痛や今みかげをよと、もう本当に痛いんですけれども、特別なおかげを頂いておるんだと、思い込ませて頂ける信心なんです。それを例えば信心を。いくら参ったって拝んだって同じ事と言って疎かにすれば、もうそれまでの事それから先のおかげが受けられない。それから先のおかげが素晴らしいのですよ。
 信心をさせて貰うなら矢張り成程一生懸命信心しておって。信心してる人がどうして貧乏が続くのだろうかと、云われる様な所を本当に頂き抜きおかげを被って参りました。成程信心しておられたが、ああいうおかげを頂かれた。まだ頂いておられると言うようなおかげを頂かなければです、お道のひれいにも、神様を現す事にも、又私共の真実の幸福もないわけです。
   どうぞ。